曹洞宗(禅宗)道林山 横蔵寺

横蔵寺について

縁起

縁起

白雉年間(西暦653年)法道仙人により開基。平安時代には58代 光孝天皇(在位884―887)の祈願所となり、59代 宇多天皇(在位887―897)が譲位の後、出家して寛平法皇となってからは、法皇の潜邸として栄えました。最盛期には伽藍諸坊百事を備え尽し、実に一国の格式高い寺であったという。広大な寺領を誇っていた当山も乱世になり荒廃したが、なお三十坊を整えていた。四条院在位、藤原頼経の時代(1235年)には五十町八反三十五代(東京ドーム約11個分)の境内地、八十町(東京ドーム約17個分)の林野 及び、寛平池(寛平年間893年頃に築造 鎌倉時代に寛平池改め寺田池に改称)の寄進状が渡された。天正六年(1578年)羽柴秀吉による三木城攻めの際、伽藍諸坊ことごとく炎上し、一堂一坊を残すのみとなりました。この時、本尊である観音は空中を飛んで水葦村にある堂に難を逃れたとの伝承があります。元禄年間、姫路市景福寺 然室尖郭和尚の開山として真言宗より曹洞宗に改宗しました。

運慶湛慶の話

運慶湛慶の話

横蔵寺の観音堂に安置される十一面千手千眼観音像(鎌倉時代)は秘仏で、25年おきに開帳されます。また、この像に関しては、以下の伝承がございます。昔、奥州に運慶という人があり、祈願のため諸国巡歴をしていたが、九州の宮崎で妻をめとりました。妻が身ごもったところ、にわかに父母のことが気にかかり、妻子を残して帰郷しました。父母を見送った後、宮崎に残した妻子のことが気にかかり、日頃信じる観音に祈願するとある夜、「わが左半身をつくり、それを持って西へ行くと必ず憧れている子供に会う事が出来るだろう」とのお告げがありました。一方、成長した子である湛慶も父を恋する思いで観音に祈願すると「わが右半身をつくり、それを持って東へ行くべし」とのお告げがありました。父子はお告げのとおり半身の像を刻み、旅路にでました。播磨国加古郡野口村のあたりで、父子は出会い、御仏の半身を合わせると一刀で刻んだように一分の隙もない尊像となりました。これより人々はこの地を相通地(あいつじ)村(大辻村)と呼ぶようになり、親子兄弟、親族に行方不明の人がある時、この観音の霊験を願って参拝する人も多くいらっしゃいます。 次の観音像様の御開帳は2025年の5月頃の予定となっております。

観音堂

観音堂⾳堂
観観音堂堂

江戸時代の正保三年(1646年)中興の祖 蘭室薫擎和尚再建横蔵寺の本尊である十一面千手千眼観世音菩薩像(伝 運慶 湛慶作)を安置。本尊を中心に両脇には毘沙門天像、持国天像、阿弥陀如来像、子安地蔵像(伝 法道仙人手刻)安置。いずれも秘仏で二十五年毎のご開帳(次期は2025年)その両側には彩色も剥落し木肌も朽ちはじめた増長天像と持国天像の二体があり、もともと当山大門の守護天として安置されていたという。賓頭盧尊者像(なで仏)

本堂

本堂
本堂

昭和四十一年、十六世天孝良順和尚再建され、曹洞宗の本尊である釈迦如来像安置。達磨大師像、大権修理菩薩像、道元禅師像安置位牌堂には、徳川家康より十代将軍までの位牌が安置され、姫路城三十三代城主本多忠国の位牌も安置されている。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造

開山堂

開山堂

昭和五十九年十六世天孝良順和尚再建法道仙人像法道仙人はインドの帰化僧で一乗寺(加西市)清水寺(加東市)等多数の寺院を開くと伝えられる。

山門

山門

ハスの花や獅子などが彫られた山門。

鐘楼堂

鐘楼堂

現在の鐘は二百五十貫平成六年再建。元禄十五年の銘ある百七十貫の鐘は戦時中に惜しくも供出。鐘の大きさが加古川市内の寺院の中でも最大である。

横蔵寺へのアクセス

マップ

住所

〒675-0101 兵庫県加古川市平岡町新在家900TEL. 079-424-0345 / FAX. 079-424-9861

開門時間

午前7時~午後5時

アクセス

公共交通機関でお越しの方

JR 神戸線「東加古川駅」徒歩10分神姫バス「東加古川病院前」加古川駅前1番乗り場

お車でお越しの方

加古川バイパス 東加古川ランプ下車 北へ100m

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